安立商店街タウンガイド
4/16

ら  やす  2安安立立 と住吉大社の参詣道として発展した安立太閤秀吉の街道整備一寸法師伝説をたずねてとひおとめからいあんりゅう 「霰あれ打つあられ松原すみのえの弟お日娘と見れど飽かぬかも」と万葉集に歌われているように、安立の辺りはその昔、堺まで続く海岸線で「岸の辺の道」とも言われる白砂青松の景勝地でありました。そして、大阪中を祓い清める意味から単に「おはらい」ともいわれるのが、大阪の夏祭りを締めくくる住吉祭です。古来より住吉祭では、住吉大社を出た神輿が安立を通って大和川を越え、堺までお渡りする「神輿渡御」の神事が行われています。住吉大社の社領として、また美しい景勝地で神様の通り道という抜群のロケーションが、まだ名もなき安立というまちの成り立ちの背景にあります。時を経て、安土桃山時代になると太閤秀吉が大坂城下の都市整備を進めます。住吉参詣道を兼ね、すでに自治都市として経済の要所であった堺と大坂を結び、その街道沿いに町屋が並ぶ一大ストリート。これが住吉街道であり、のちに和歌山まで続く紀州街道と呼ばれる道になります。住吉詣にあちこちから人が訪れ往来する門前の安立は、多くの人が住まい、商いも賑わいます。一帯が田畑、村々であるにもかかわらず安立は「安立町」として発展したのです。またこの地域が「安立」(あんりゅう)と名付いたのもこの頃といわれ、この地に人徳高い半な井安立という名医が住まい、これを求めて人々が集まり、その名を讃えて安立としたといわれています。さて、「紀州藩参勤交代行列図巻」(後述)を見ると、昔の安立の様子が生き生きと描かれているのがよく分かり、店が軒を連ねる様は、まさに今の商店街のようです。江戸時代の初め頃、ここに「三み栖屋」という縫い針の製造販売の店ができます。鉄砲に代表される高度な製造技術を持つ堺のお膝元・安立で生まれたこの「みすや針」は、それまでの大陸べぇらぁ! べぇらぁ!安立3丁目にある紀州街道の道標江戸時代の安立町と周辺住吉大社蔵『摂津国一之宮住吉神社境内社領絵図面』を基に作成安立2丁目にある霰松原公園の万葉歌碑意味は「あられが打ち付けるように風が吹く松原と住吉の弟日娘の美しさは見飽きないものだ」住吉祭 安立を渡る神輿

元のページ  ../index.html#4

このブックを見る